昨年の8月10日、僕は大事な会議に出席していた。
開始早々、私用の電話が鳴る。
叔父からだ。滅多にかかってくることはない。
その時点で一大事だと悟った。
案の定、
「お母さんが倒れた。」
と。
冷静を装い、主催者に事情を告げ、お詫びをし、会議室を後にする。
そして一路、八戸へ。
脳梗塞だった。
倒れてから叔父が発見するまでに少し時間があったようで、障害が残るのは必至とのこと。
でも発見してもらえただけよかった。
不幸中の幸いとはまさにこのこと。
結果、やはり障害は残った。
右半身が動かず、言葉も失った。
ショックだった。
悲しかったというより悔しかった。
この一連のディティールを書くと、優に10000字オーバーになりそうなので、ここでは割愛する。
そこからリハビリに励み、おぼつかないが杖をついて一歩一歩ゆっくり歩き、うまく発音できていない小さな声ながらコミュニケーションが取れるくらいにまで回復した。
母親が一番がんばったわけだが、可能性を信じて、優しくも厳しく、親身になって指導してくださった美保野病院の皆様には心の底から感謝をしている。
そして一昨日、退院し、盛岡に連れてきた。
それに伴い、母が一人で暮らしていた実家は、叔父と叔母に住んでもらうことになった。
つまり、実家は親戚の家になった。
皮肉のように聞こえるかもしれないが決してそうではなく、僕がそうしてほしいと望んだ。
僕が岩手を離れ八戸に帰り、その家で母を迎えることも考えたが、家庭や仕事や親戚のことを思うと、その選択をしない方がうまくいく気がした。
そもそも実家の定義って何だろうって思うが、一般的な感覚で言うところの実家は、もう八戸にはない。
でも出身は青森県の八戸市だと堂々と言いたい。
正確に言うと、堂々と言いたくなった。
高校を卒業してからというもの、八戸には盆暮れしか帰らなかったと言っても過言じゃないが、母が倒れてからは、時間を見つけて頻繁に通うようになり、うまく言えないが、八戸と向き合うようになった。
すると、めちゃめちゃいいところだということに今さら気付いた。
当たり前のようだが、海、山、川があり、ご飯が美味しく、中心市街地には活気が戻ってきている。
その活気を取り戻している中心には同級生がたくさんいて、それが嬉しく、そして誇らしい。
八戸も盛岡も南部藩だが、その中でも八戸藩と盛岡藩があり、その違いを関西で例えるなら、八戸藩は大阪っぽく、盛岡藩は京都っぽい感じがする。(あくまで主観だし皆まで言わない)
その “ っぽさ ” が妙に愛おしく、自分もここで育った人間だということを改めて感じた。
実家はなくなったが、伊藤家の長男としてお墓は気に掛けていくし、なんならそれを理由に八戸に行きたい。
もはや、義務感の帰省ではない。
追伸
このことをご理解いただき、時として柔軟にご対応いただいた仕事関係の皆様に、この場を借りて心からの御礼を申し上げます。